アフリカとの出会い31 「耀く子どもたち」
   

竹田悦子 アフリカンコネクション

 ケニアでの日々は、私がお世話になっていたNGOが主催する保育園の朝のクラスに出席することが日課になっていた。NGOの敷地内にあるこの保育園は、地域の貧困層を対象としていて、他の施設に比べると保育料は随分と割安に設定され、一ヶ月300˜400円くらいだった。

 ナイロビから、車で30分ほど離れた場所にあるkitengela(キテンゲラ)という町。この地域の特徴は、もともとマサイ族の土地であった所へ、ナイロビへ出稼ぎにきている地方出身者が進出してきているということである。53民族が住んでいるというケニアの、多くの民族が交じり合って暮らす現代ケニアの縮図のような所なのだ。もちろんそういう場所は、ここに限ったわけではないが、その規模といい、人口増加のスピードといいケニア国内の地方出稼ぎ者の数は抜群に多い地域だった。

 
 ケニアのそれぞれの民族は、それぞれにその独自の文化と言語を持っており、生活様式も違う。それらを、ここではすべて見ることが出来る。外国人の私にとって、ケニア人の多様性、ひいてはアフリカの多様性を知るきっかけになった。

 そんな地域の保育園。牛を追う遊牧民族として知られるマサイ族、農耕民族でありケニア最大民族でもあるキクユ族、ビクトリア湖を囲む西ケニア出身のルオ族、ルヒヤ族、中央ケニア出身のメルー族、ダンスが得意なカンバ族など、有名な民族だけでもきりがない。それらの民族の子供たちがひしめきあう保育園。当初見分けは、つかなかった。みんな同じように見える。しかし時間がたってくると、名前や住所で少しずつ「違い」が見えてくるようになった。
 名前の付け方は特に各民族とても面白く特徴がある。 祖父母の名前を世襲するキクユ族。生まれた時間で名前を付けるルオ族。マサイ族の名前は、特に発音が面白くとてもユニーク。

 それぞれの民族の住み方も違っている。マサイ族は今でも多くが牛糞を固めて作るマニアッタと呼ばれる家に住んでいて、牛を何百と飼っている。キクユ族は、近代的な家を好む人が多く、お金がある人はコンクリートを固めて西洋的な家に住んでいる。しかし、貧困層が多い地域。どの民族も、民族の伝統的な家屋ではなくて、一番安い材料でつくった「マバティハウス」と呼ばれる簡易な家に住んでいる人が多い。

 私が働いていた当時の保育園では、先生が1人いて20˜30名の子供たちを教えていた。年齢はさまざまで、3歳˜5歳くらいまでの子供たちが一緒に学んでいた。朝登校し、お祈りをする。算数・英語・スワヒリ語など教えた後、朝ごはんが出る。「ウジ」という白とうもろこしをお湯で溶いたもの。その後は、庭で遊んだりしてまた勉強に戻る。お昼までには終わり、下校する。かばんや鉛筆を持っている子は少なく、紙袋にノートを入れて、それを大事そうに抱えていた子もいた。鉛筆や消しゴムは、クラスのみんなで使い回ししていた。

 一番長い鉛筆を誰が使うかでいつも競争。それが終わると一番大きな消しゴムを誰が使うかで競争。朝ごはんのウジは、誰が一番早く飲み終わっておかわりをするかで盛り上がる。勉強の時間では、先生に当ててもらいたいとみんな小さな手を必死に上げてアピールする。ノートに描いた英文を添削してもらうのも、いち早く書いて一番に先生に採点してもらおうと必死。ノートの最後のページが終わると、外に出て砂に書いて覚えようとする子供たち。計算も英単語も砂に書いた。天気が良くない日は、手のひらに書いて覚える。

 私は、そんな子供たちの姿を、共に過ごし教えながら、来る日も来る日も眺めていた。子供たちは、毎日「学ぶことが最上の喜び」であることを全身で伝えてくれた。

 大人から見ると、貧困地域の貧困層を対象にした保育園。学ぶ環境としても完璧とはいえない。しかし、子供の目線でみると決してそうではないようだった。先生が居て、新しいことを教えてくれる場所。将来へと続く階段なのだ。
 着る物もままならず、御飯もきちんと食べていない子も多かった。文房具も十分にない。自分のための本も持ったこともない。しかし、きらきらと輝く子供たちがとてもまぶしかった。「生命の輝き」としか私には表現できない。
 現在、私は先進国といわれる日本にいて、あの「きらきらした感じ」がどうしても恋しくて、今はもうきっと成長して大きくなった子供たちの写真を眺めてしまうのである。



                アフリカとの出会い目次へ        トップへ